TOKYO COLLEGE Booklet Series 3
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24 に表れていることです。もう1つは、民衆の生命の政治的・社会的費用は第一次世界大戦当時、先進国においても驚くほど低かったことです。徴兵令状1つで人を政治と軍事の目的のために動かすことができたのです。ところが今は、アメリカ、ソ連、中国のような20世紀の戦争大国でも、民衆の生命の政治的・社会的費用が高騰しています。そして、ヨーロッパ諸国や日本のように、第二次大戦後に国内で戦争状況がなかった国ではもとより人命の費用は高くなっています。さらに韓国や台湾のように、苦難の後に民主化と経済発展を経験した国々でも民衆の生命の政治的・社会的費用は高くなっています。 生命の費用が高くなっていることが問うているのは、指導者や専門家が生命の費用の高騰に対応して適切な選択・決定・説明をしているかどうかということです。あるいは、コロナ禍はもちろん初めての経験ですから、適切な選択などできないと言われるかもしれません。だとするならば、適切な選択・決定・説明をするための努力を怠っていないかどうかが問われています。ところが、現状を見ると、日本だけでなく幾つかの国に共通することですが、生命の費用が安かった時代の無責任さに、指導者たちが逆戻りしているのではないかと危惧されるのです。 また、危機後の代替策や後継者がある場合とない場合とでは、危機の意味は大きく変わります。代替策があるなら時代が変わるのは世の定めと考えることができますが、代替策も後継者もなく何か ―たとえば、大学の対面授業や合唱やロックコンサートなど― が滅びようとしているのであるとすれば、それはやはり由々しき事態です。

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