32 の回復です。これはまさに政治哲学的な課題ですが、このことが見失われたときに、いかに平等と公正を強調していくのかが、今後のポスト・ウィズコロナ社会で考えるべき非常に大きな課題だと考えます。 そして、「良き統治」を求めていくべきだと考えます。これは、私も翻訳に関係したフランスの政治学者ピエール・ロザンバロンの著書のタイトルでもあります。ロザンバロンは「良き統治」の条件を歴史的に議論していて、ポイントは理解可能性と統治責任と応答性だとしています。このコロナ社会において非常に適切に当てはまっていると思ったので紹介します。 理解可能性というのは、なぜそのような決定がなされたのか、なぜそのような対策が取られたのか、さまざまな専門家がいろいろな意見を言ったけれども、そのうちのどの意見をどのように採用し、こういう対策を決定したのかということを人々が理解可能にするということです。逆に言えば、密室で決められて、記録も残っていないのは、まさに理解可能性に反するわけです。「良き統治」において理解可能性が非常に重要だとすると、今回の日本のコロナ対応でも理解可能性においてしばしば問題がありました。なぜそのような決定が下されたのか、極めて唐突な形で示され、データも十分示されないことがしばしばありました。 統治責任というのは、いわば答えのない危機の状態において最終的に政治家、政治指導者が一つの決定を下しますが、それが正しかったのかどうかはそのときには分かりません。時間がたってから、記録に基づいて検証しなければなりません。そして場合によっては、責任を問わなければなりません。逆に言うと政治的指導者は、緊急事態において多くの国民に負担を求める以上、自分がもし誤った決断を下したならば、事後的に責任を取り、辞めることが重要な条件となります。今回の件でも、ややもするとな
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