36 おいて、社会契約論などを通じて不思議な形で反復されてきたのです。ただ、そこで何が問題だったかというと、実は民衆が不在(アデミア)だったのではないかということです。人民のためにと言いながら人民が不在になる。そうであれば、デモス(民衆)が正しい仕方で姿を表すデモクラシーをどう構想し直すのかが問われているわけです。 先生方からのご指摘のなかで非常に重要だと思うのは、責任や科学性の問題です。丸山眞男は「無責任の体系」という概念によって20世紀の日本のあり方を分析しましたが、そこで描写されていたあり方から私たちは本当に遠く逃れたのでしょうか。武田先生は東日本大震災以降のことにも言及されましたが、その時にも「無責任の体系」が露呈していたように思います。では、このコロナ危機において、いったいどういう態度をもって臨めば、再び「無責任の体系」に陥らずにすむのか。 宇沢弘文はかつて、フィデュシアリー(信託)を強調し、「社会的共通資本の管理、運営は、フィデュシアリー(fiduciary)の原則にもとづいて、信託されている」、そして「社会的共通資本の管理を委ねられた機構は、あくまでも独立で、自立的な立場に立って、専門的知見にもとづき、職業的規律にしたがって行動し、市民に対して直接的に管理責任を負うものでなければならない」(以上、宇沢弘文『社会的共通資本』、岩波新書、2000年、Kindle の位置No.319-328)と主張していました。ここで指摘されたフィデュシアリーがひょっとすると、責任と科学性にとっても有効なのかもしれません。 残りの時間を使って3人の先生方に議論を深めていただければと思うのですが、やはりデモクラシーの再定義が問われているのだと思います。しかも、バイオポリティクスに安易な仕方で陥らないように、それを考えなければなりません。ところが、今は監視社会を人々が自ら望むような動きもあります。「正しく監視してほしい」。それをメディアが後押しする
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