39 武武田田 バイオポリティクスについて言うと、確かミシェル・フーコーの『生政治の誕生』と名づけられた講義録は、18世紀イギリスの政治家ロバート・ウォルポールの言葉を引くことから始まっています。言うまでもなく、ウォルポールは議会制民主主義を確立する上で非常に大きな役割を果たした政治家だといわれていて、そう考えるとバイオポリティクスは実は近代的な民主主義の始まりから刻印されていたものではないかと思ったりもします。デフォーの『ペストの記憶』が描いたのは17世紀ですが、先ほど私が説明したように、ロンドンのシティーという空間は市民が市民を管理するという、ある意味で近代的な政治体制が早くから確立していた場所でもあって、それ故に私たちがあの本から学ぶことがあると思うのです。 それで先ほどから話に挙がっている生命に関して思ったことを申し上げると、生命について考えるときに「ボディー」としての生命と「ライフ」としての生命の両方を考えるべきではないかと思います。つまり、行政が管理する、あるいは重視する、あるいは保護しようとする生命は、ボディーの方ではないでしょうか。もちろん、英語でbodyというとき、「死体」という意味もあります。これが示唆するように、『ペストの記憶』で行政がおこなう、市民の健康管理と感染者の遺体の処理とは、同じ原理でなされています。それに対して実際に市民が日々享受しているのはライフではないかと思うのです。労働力としての市民のあり方、労働力としての市民の身体を守るという観点から考えると、ボディーは何よりも大事であり、ボディーを守ろうとする行政側の意向が、市民からはまるでライフを守られているかのように認識された結果、ある意味で奇妙な状況が生じています。つまり、生命を守るために自分の権利は喪失してもいいという歪んだ状況が生まれているのではないかという気がします。だから、このあたりをもう少し解き明かしてみると、現代における民主主義の問題が分かってくるのではないでしょうか。
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