40 それから、やはり政治における無責任の問題は非常に深刻だと思っています。小野塚先生の話で「自粛」が実に無責任だというお話があったと思いますが、「自粛を要請する」という言葉は、それ自体がある種のオクシモロン(撞着語法)であって、自粛は他者から要請されるものではないはずです。しかし、そのような形で権力が最悪の働き方をしているのが現状だと思います。そのあたりの言葉のレベルでの矛盾についてもいま一度慎重になって、私たちのライフが脅かされているということに、言葉を研究する人間として自覚的でありたいと思っています。 中中島島 ライフのあり方、われわれの生のスキルのあり方を考え直さないといけないと思います。私たちの今の想像力の中では、ライフはボディーに還元されるような生になってしまっています。ところが、そのボディーも私たちがそれを生きているような身体ではどうもなさそうです。では、どういう形で生のあり方を摑み直せばよいのでしょうか。たとえば、「私の体」とか「私の生」という言い方、つまり所有格で語ることはできるのかという問題がありますが、それは非常に重大な問題だと思います。 ところが、その問題を案外簡単にやり過ごして、かなり単純化された生や健康を前提にして、さまざまな意思決定がなされているように見えます。そういった過度の単純化に対して、概念を扱う人文学や社会科学は、徹底的に問い直さなければいけない。今こそそうした学問のあり方が問われているのだと思います。 せっかくの機会なのでもう一つ伺いたいと思うのですが、危機を転機に変えるためには、新しい想像力が必要だと思います。とりわけ社会的想像力が問い直されていると思います。デモクラシーのアップ・トゥ・デートにしてもそうでしょうし、専門家といわれているものをどう定義し直すかというのにも関わります。先生方のそれぞれの考えから、私たちがあらた
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