TOKYO COLLEGE Booklet Series 6
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36 渡渡部部 制度も、レセプトのようなものが既にあるのだからそれを使えばいいという発想をするならば、実はいろいろなことを今まで考えてきたわけです。それをこの機会に使えるものは使うということをよく考えたらどうかという話でした。それから、「プライバシーvs公衆衛生」という話に簡単にしてしまってはいけないとおっしゃられましたけれども、まさしくこの数カ月間の宍戸先生の感想としては、自由のところではないかと思いました。というのは、そこで思考が停止しているのではないかという気がするのです。その辺をもう少し付け加えていただければと思います。 宍宍戸戸 一般にプライバシーという言葉で議論されてきた問題にはさまざまな複合的な論点が含まれているように思います。1つには、自分がデータとして把握されないことです。私の言い方としては、いわゆる「データからの自由」という問題です。もう1つは、「データへの自由」であり、自分の情報をコントロールすることに自分が関与する権利があると思います。最後は「データによる自由」であり、自分のデータを活用することによって自分に有意義なサービスや人間関係を築いて暮らしていくことができるということです。そういった「データからの自由」「データへの自由」「データによる自由」の問題がこれまで複合的にプライバシーという言葉の側に寄せられてきたように思います。 それをいつも「データからの自由」だけで考えると、まさに「プライバシーvs公衆衛生」「私的な自由vs公益」ということになるのですが、そこはもう少し仕分けをして考えなければいけません。もちろん「データからの自由」の部分で、人間の内面まで監視する、あるいは継続的に人間の行動を全て監視するようになると、「データからの自由」の根源的な信頼になって、非常に大きな問題をはらむと思いますが、そこに至らない範囲で、公衆衛生目的でさまざまな仕組みを作り、データを解析し、それが本人の便益としても、社会全体の公益としても返ってくる。しかし同時に、

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