重なり合う国際法の知識:幕末および明治初期の「万国公法」
このブログ記事は、東京大学で行われた2023-2024年度全学自由研究ゼミナール『Knowledge Encounters in Global History and the Contemporary World』の授業の一環で作られました。
執筆者
川崎健開
東京大学教養学部 文科三類 学部生
はじめに
「International Law」の訳語として、「国際法」が用いられていますが、この概念の日本での定着の道のりは平坦ではありませんでした。現在の「国際法」という語は箕作麟祥によって1873年に提唱され、それまでは、「万国公法」と翻訳されていました[1]。「万国公法」はヘンリー・ホイートンの著書 Elements of International Lawの、ウィリアム・マーティンによって1864年に出版された漢文訳版のタイトルでした。徳川幕府はこの『万国公法』を洋学研究機関であった開成所を通じて1865年に輸入し、日本の知識層の間に大きな衝撃をもたらしました。そして、「万国公法」は「International Law」の訳語として広く普及したのです。
その後、「万国公法」は他の語によって徐々に置き換えられていきます。1874年5月に東京開成学校が発足した際、「International Law」の授業科目名は「万国公法」でしたが[2]、同年9月にカリキュラムが再編され、その際科目名も「列国交際法」へと変えられました[3]。さらに1881年には、現在でも用いられる「国際公法」という科目名になりました[4]。そこで、「万国公法」という語の流行と衰退の原因を調査し、日本の近代化にもたらした影響を考えることは、興味深いと感じました。
多くの研究者が、 「万国公法」の受容が、日本における近代西洋概念の定着という点で、最初期の一例であるために、その一連の流れについて分析してきました。私は、当時の日本の知識層がどれほど西洋の概念を理解していたかを評価するというより、知の邂逅の視点からそのプロセスを再考しながら、「万国公法」をめぐる知の権威の遷移のダイナミクスを分析します。
図1:『万国公法』(1865)
京都大学貴重資料デジタルアーカイブ
https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/en/item/rb00010208
「天地の公道」:「万国公法」という儒教的理解
朱子学の絶対的な知の権威のなかで、西洋由来の学問は江戸時代を通じて圧伏させられていました。解剖学や天文学の分野で蘭学が大きな貢献をしたにも関わらず、西洋学問は朱子学者によって本質的ではない事柄の詳細な研究にすぎないと考えられていました。例えば、19世紀前半の最も影響力のある儒学者の一人であった佐藤一斎は西洋の「究理」が形而下の枝葉末節の学問に過ぎず、その原理は本質に基づくものではないので、『易経』の本質から学ぶのが良いと主張しています[5]。
しかし、佐藤一斎の弟子を含めた次の世代の朱子学者たちはこうした従来の考えを疑問視し、西洋の知識を積極的に吸収し始めました。こうした状況で儒教的観念の普遍性を強調する「天地の公道」という言葉が流行します。19世紀の中頃に、革新的な知識人たちは新しい儒教の形を表現するためにこの言葉を用いました。例えば、安積艮斎は、1841年、「道は天下の公道なり學は天下の公學なり孔子孟子の得て私する所に非ず博く天下の善を取るべし」と述べました[6]。また、横井小楠は著書『国是三論』のなかで、「天地の気運と万国の形勢は人為を以て私する事を得ざれば、(中略)天地の気運に乗じ万国の事情に随い、公共の道を以て天下を経綸せば万方無碍にして、今日の憂る所は惣じて憂るに足らざるに至るべきなり。」と書いています[7]。このように、「天地の公道」は普遍的かつ理想的な国の統治を表現する言葉として用いられたのです。
これと並行し、幕府も自ら開国に伴う外交・軍事上の必要性から洋学研究を推進しました。外国語文献の翻訳および洋学研究のために、のちに『万国公法』を出版することになる開成所に再編される、蕃書調所を開設しました。
五箇条の御誓文の四番目「舊來ノ陋習ヲ破り天地ノ公道ニ基クヘシ」の原案において、「宇内の公法」の語が「天地の公道」に代わって用いられていたことから、当時の人たちに「万国公法」と「天地の公道」が同一視されていたことが20世紀の研究者たちによって指摘されています[8]。
このように二つの異なる語が同一視された要因としては、ウィリアム・マーティンによる翻訳と儒教的な理解が考えられます。国際法に中華文化圏には存在しなかった数多くの概念が含まれていたため、ウィリアム・マーティンは国際法の精神をより中国の知識層に理解しやすいものにするため、適宜新語を作りながら翻訳しました。これは中国と日本における国際法に関する知識の土着化をもたらすことになります[9]。一方で、儒学は理から導き出されるということを前提にしているので、当時の儒学者たちが国際法をも理に基づく無条件に全世界に適用される自然法的に理解することが、わかりやすかったという側面もあります[10]。
「天地の公道」と「万国公法」を同じものとみなす積極的な動機もあったように思えます。「万国公法」流入以前から、儒学者たちは「天地の公道」の名の下に普遍的な儒教的大義を立てようと試みていました。幕府の方も開国という新しい外交方針を正当化する論理を必要としていました。そして、国際法を普遍的な自然法と考えることで、これらの問題を一気に解決することができたのです。つまり、西洋と日本は同じ理に基づく普遍的な原理を持っているけれども、現状、「万国公法」のおかげで西洋は「天地の公道」に近づく上で、日本に先んじていると主張することで、儒学者と幕府は儒教的政治理論の正当性・真理性を失うことなく、西洋の進歩性と外交的変革の必要性を認めることができたのです。
このように儒学者にとっての「万国公法」と「天地の公道」の結びつきは強固でしたが、前述した通り、1870年代には「万国公法」という語は公的には用いられなくなります。一体なぜ儒教的な国際法理解は急速に衰退したのでしょうか。
儒学者による「万国公法」解釈の衰退
「万国公法」の儒教的解釈は同時代の西洋により影響を受けた知識人からの批判に晒されることになりました。批判を展開したのは西周と福沢諭吉という、近代日本の黎明期において最も影響力を持った二人の思想家でした。
福沢は「天地の公道」に基づく外交方針を直接的に非難しました。彼は『文明論之概略』の中で、「又ある学者の説に云く、各国交際は天地の公道に基づきたるものなり、(中略)自由に応益し、自由に往来し、唯天然に任すべきのみ。(中略)自らを脩めずして人に多を求るは理の宜きものに非ず、(中略)此説真に然り。一人と一人との私交においては真に斯の如くなるべしと雖ども、各国の交際と人々の私交は全く趣を異にするものなり。」と述べています[11]。「ある学者」が儒学者を指しているのは明らかですが、諭吉は「天地の公道」に基づく外交理論を整理した上で、修身と政治を結びつける儒教的政治理論自体を批判しています。そして「(然るに東西懸隔、殊域の外国人に対して、)其交際に天地の公道を頼みにするとは果たして何の心ぞや。迂闊も亦甚し。(中略)世界中に国を立てて政府のあらん限りは、其国民の私情を除くの術ある可らず。其私情を除くの術あらざれば、我も亦これに接するに私情を以てせざる可らず。」と続けます[12]。儒教的思考の解体は彼の啓蒙家としてのキャリアの前半における一大問題であったと後の研究者が指摘しており、彼にとって「万国公法」と「天地の公道」の結びつきは儒教的思考による西洋学知の歪んだ解釈でした[13]。「万国公法」と「天地の公道」の問題は単に国際法概念の翻訳の問題を超えて、朱子学と福沢が提唱する実学という二つの学問体系の間の重要な論争の種となっていたのです。
学知の権威および序列の変化も、儒学的「万国公法」観念の廃絶に寄与しました。1871年、朱子学の公的学問機関である昌平坂学問所にルーツを持つ大学本校は閉校し、法律教育の公的機関は司法省管轄の法律学校、明法寮と、開成所の流れである大学南校へと移ります。
さらに、ウィリアム・マーティンの漢訳版以外の国際法の翻訳が出版されました。1862年から65年にかけてオランダで学んだ西周は、その時のノートをもとに1866年に『畢洒林氏万国公法』を出版しました。「万国公法」という語を用いているとはいえ、フィッセリングが慣習と条約に基づいた実効的な国際法を教えたため、彼の国際法理解は儒学者のものとは全く異なるものでした[14]。1873年には、箕作麟祥がセオドア・ドワイト・ウールジーの Introduction to the Study of International Lawを『国際法一名万国公法』として翻訳しました。こうして、数年の間に、国際法の翻訳および解釈の多様性において、ウィリアム・マーティンの漢訳時点より大きく広がりました。
図2 :『国際法(一名万国公法)』(祐徳稲荷神社所蔵)
国書データベース、https://doi.org/10.20730/300043326
「万国公法」の概念理解の変遷の意義
万国公法という語の背景には、「万国公法」と「天地の公道」を結びつける国際法の儒教的解釈の衰退がありました。これは、朱子学が他の学問体系に対してその権威を失った一つの要因でもありました。
「万国公法」の解釈の変遷は知の権威の遷移を表しています。1860年代、『万国公法』が開成所から出版された際には、その読者は主に儒学者たちでした。しかし、数年のうちに留学経験のある者を含めた多くの知識人から、様々な解釈が提示されました。そして儒教学術機関は閉鎖され、代わりに新しい研究機関が開かれました。
一方で、「万国公法」の議論もまた、知の序列の遷移に対しての影響を及ぼしました。国際法の儒教的解釈は誤解でも単なる西洋概念の受容への一歩でもなく、幕府と朱子学の権威の復活を懸けた試みでした。この試みは啓蒙主義者たちとの緊張関係を生み出し、この緊張関係は西洋の進歩的な観念が時代遅れの儒教を置き換えるといった植民地主義的語りとは異なるものでした。「万国公法」は共通の関心事であり、その解釈をめぐる議論は、その意味や外交関係の作用を明らかにするという作業を超えて、旧来の知の権威であった朱子学者と新たな挑戦者である啓蒙主義者が同じ土俵に上がる機会を提供しました。もし「万国公法」が、他の多くの概念とともに、議論が白熱する場を提供しなければ、私たちの近代史は少し違ったものだったかもしれません。
図3:先行研究の一部(写真は筆者による)
[1] 尾佐竹猛著『国際法より観たる幕末外交物語』(東京 : 邦光堂、1930)、7頁。
[2] 東京大学出版会『東京大学百年史 部局史1』(1977)、 8頁。
[3] 同上、9頁。
[4] 同上、30頁。
[5] 「西洋の窮理は、形而下の数理なり。周易の窮理は、形而上の道理なり。道理は、譬ば則ち根株なり。数理は、譬えば則ち枝葉なり。枝葉は根株より生ず。能く其の根株を得れば、則ち枝葉之れに従う。窮理者は宜しく易理よりして入るべきなり。 」佐藤一斎著、久須本文雄訳注『言志四録』(東京:講談社、1994)、843頁。
[6] 井上哲次郎著『日本朱子学派の哲学』(東京:富山房、1905)、543、頁。
[7] 「沼山対話」、横井小楠著、花山三郎訳注『国是三論』(東京:講談社、1986)、24〜25頁。
[8] 学制百年史編集委員会『学制百年史』資料編、「五箇条の御誓文」(https://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1317933.htm)。
[9] 田岡良一著「西周助万国公法」、 『国際法外交雑誌』71 (1972)、26頁。張嘉寧著「『万国公法』成立事情と翻訳問題」、 加藤周一・丸山真男編『翻訳の思想』、『日本近代思想体系(15巻)』第(東京:岩波書店、1991)、393〜394頁。
[10] 吉野作造著「我国近代史に於ける政治意識の発生」、『吉野作造選集(11)』(東京:岩波書店、1995)、261,264〜267頁。
[11] 福沢諭吉著「文明論之概略」、『近代日本思想体系(2)』(東京:筑摩書房、1975)、223頁。
[12] 同上、224頁。
[13] 丸山真男著「福沢諭吉の儒教批判」『丸山眞男集』第二巻(東京:岩波書店、1996)、142頁。
[14] 前掲田岡良一著「西周助万国公法」、26頁。