2つの銅像に見る、日本人の記憶のなかの島義勇 ―②
探検者/植民者としての島義勇
札幌周辺を調査し、碁盤の目状の区割図を作成した島は今日、佐賀でも北海道でも、札幌市の建設者として広く称揚されている。島の影響は札幌の街並み、とりわけ、北海道神宮より北東の中央区の街並みに今も感じられる。島が開拓使の本庁建設地に選んだ場所には、北海道庁がある。2020年まで北海道立文書館もそこにあった。その周辺は札幌市の商業や教育の中心地であり、筆者自身の研究も大部分はすぐ近くの図書館や文書館で行った。筆者は開拓者植民地主義を批判する立場だが、これまでの研究は、北海道の初期の植民地化に関係する諸機関に負うところが大きく、それゆえ間接的には島の業績にも負っている。
ともあれ、2つの銅像の銘板が示しているように、島への称賛は地理学者や都市設計者としていうより、島が目に見えない霊的エネルギーを注いだことで、日本は北海道の植民地化という難題を成し遂げることができたという文脈においてである。そこでは、札幌は踏み台に過ぎなかった。この文脈で島は「北海道開拓の父」と尊称されているが、アメリカ人のホーレス・ケプロン(開拓使顧問)とウィリアム・スミス・クラーク(札幌農学校(現北海道大学)の初代教頭)も「北海道開拓の父」と呼ばれている。
近世日本の蝦夷地の政策が「植民地的」と論じる歴史家は少なくない。しかし、私がここで強調したいのは、松前藩がアイヌの人々の労働力/身体を搾取して利益を得ようとしたのに対し、開拓使がアイヌの土地の搾取に重点を置いていたことである。アイヌの土地は1869年に併合されて北海道と改称され、本土から移民が入植した。彼らは北海道の植民地化に必要な労働力を提供する。森林を農地に、山を鉱山に、湾を港に変え、北海道の広大な自然資源を搾取して富を増大させた。それに対しアイヌの人々は、所有していた土地と資源を否応なく取り上げられ、コタンを追われ、新たな移民社会からほぼ排除された。アイヌの人々は北海道の沿岸や川の流域に住んでいたが、漁場を移民に奪われ、次第に内陸へと追いやられた。移民たちは北海道植民地化の恩恵を受ける一方で、アイヌの人たちをただの余剰人口として扱った。そのため、道内の多くの集落がひどく疲弊し、1870~90年代に飢饉に見舞われた集落もある。英国系アメリカ人の開拓者植民地主義をはっきりと想起させる(そして、その影響を直接受けている)このプロセスの蓄積が、「開拓」と呼ばれた。
今日の多くの人が「開拓」という言葉から思い浮かべるのは、屈強な先駆者が処女地を切り拓き、原野を都市に変え、産業を興すというロマン溢れるイメージである。これが日本における北海道植民地化の標準的な理解であり、「開拓」を “colonization” ではなく “development” と英訳することで、そうした理解が英語圏の研究にも反映されている。開拓を “development” というのは、アイヌの人々が存在しない場合においてのみ道理が通る。しかしながら、1870年代初め、「開拓」は一般に “colonize” と英訳され、「開拓使」についても、ケプロンら外国人顧問は “Colonial Office” または “Colonial Department” と呼んでいた。つまり、多くの欧米人は開拓使を、イギリス植民地省の日本版と理解していた。イギリス植民地省は、今日のアメリカやカナダ、オーストラリアが所有している領土の植民地化を計画し、そこへのヨーロッパ人の移住を促進した。その点で、日本が欧米の植民地帝国の仲間入りをすることは、アメリカのある新聞が書いたように、「近代文明の領域」に達する兆候と見られた。そして今日、歴史家が北海道を、日本語の「植民地」という意味で “colony” ということに異論があろうと(論争にはならずとも)、20世紀から21世紀への転換期においてこの語は文字通り、植民地空間に「植民する」ことを意味し、明らかに島の尽力により、蝦夷地が「日本」になったプロセスを正確に表現するものである。
ミッシェル・メイソンが述べているように、おそらくこうしたプロセスの一環として、アイヌの人々は北海道植民地化の歴史から早々に「省かれ」、北海道は誰も住んでいなかった土地、あるいは新渡戸稲造が言ったように、「手つかずの」土地だったと、多くの人が思うようになった。北海道開拓に果たした島の役割を称揚する物語にはそのように描かれており、たとえばコミック『島義勇伝』(2014年)もそうである。このコミックを読むと、島が札幌に到着した時、周囲の土地は無人の「原野」だったと想像してしまう。なるほど、同書は明治維新150年に向けて出版され、佐賀県と北海道の推薦図書になっており、札幌は無人の土地だったが、島が「熱い『志』」を注いだことで、今日のような近代的都市になったと読者に思わせる。
多くの人にとっては尽きせぬロマン溢れるイメージであろうと、このナラティブは島自身の記述と異なる。たとえば、島は1858年の紀行に、蝦夷地調査の過程で出会ったアイヌの人々について詳述している。事実、島が本庁建設を託された場所の真北(現北海道大学の敷地)には、アイヌの集落コトニコタンがあった。のちには開拓使判官の重要な任務として、島は日本人移民だけでなくアイヌ住民も日常的に監督したし、ある時は、やはり開拓判官であった松本十郎と開拓使のアイヌ政策の倫理性について議論している。アイヌの人々が札幌に昔から住んでいたことは当時、島や初期移民にとって自明のことであったし、日本の北海道植民地化がアイヌの人々に及ぼした影響も明白であった。松本は結局、アイヌ政策に抗議して辞職した。また、アイヌの人々はしばしば北海道の歴史において「省かれ」たとはいえ、アイヌの歴史的存在は北海道の地図にしっかり刻まれている。北海道内の定住地の圧倒的多数は、その名称をアイヌの地名に由来している(ただし、今はアイヌの人々がほとんど住んでいないところが多い)。札幌もアイヌ語の地名「サッ・ポロ・ペッ」から来ており、かつてアイヌの集落だったことを示している。
東京大学の小森陽一名誉教授は、日本によるアイヌの土地の植民地化は無人の土地を平和的に征服したものだという主張に反論し、北海道は「植民地主義的な『無主の地』という論理において領土化され」たと述べている。これは、アイヌの土地には住人も所有者もいない原野だという前提で、開拓使の権限でアイヌの土地に対するアイヌの主権を公的に取り上げたことを意味する。小森によれば、その後、そこに日本人開拓者が平和的に定住したのではなく、「侵略」したのであり、この侵略は、当たりさわりのない「開拓」という言葉で当初から覆い隠されたのだ。
したがって、北海道の無人の「原野」を探検し、「北海道開拓の父」と呼ばれる島の英雄物語は、アイヌの人々に対する暴力を覆い隠し、アイヌ自身の土地からアイヌの人々を消し去るものである。これでは『無主の地』の理論が21世紀にも再生産されざるを得ない。
歴史としての銅像
歴史的に見て、島の立ち位置は複雑である。アイヌの征圧者として仕えた時期もあったが、最期は「反逆者」として明治政府に処刑された。しかしながら、主体のこうした多義性ゆえに、島のような人物が近代日本の歴史叙述において非常に重要なのであり、筆者を含め歴史家にとってとても興味深い。さらに、こうした多義性があるために、佐賀県と北海道の多くの郷土史家は、公的な記念碑やコミックに描かれた単純化された物語に疑問を呈し、島などの歴史的人物に対してもっと違ったアプローチをとること、アイヌなど周縁化された人々を日本の歴史にしっかり組み込むことを提唱している。
指摘しておくべきことに、島は北海道だけでなく佐賀でも暴力に直接関与しているが、単純化された物語にはそうした面はほとんど描かれず、島は理想化された開拓神話の主人公に納まっている。島自身の信念や経験は顧みられず、島が北海道の植民地化に関与した理由にも触れない。もちろん、島のそうした行動は個人の「志」によるものではなく、鍋島の臣下としての役割に起因するものである。また、近代日本のナショナル・ヒストリーにおいて重要な人物でありながら、島の人生や経験を「偉人」の伝記という浅い鋳型に合わせて平板化するのはおそらく、島については、国の「英雄」あるいは「悪者」という安易なカテゴリー化ができないからであろう。さらに、島が明治政府に背を向けたことは、明治初期においては多くの者にとって、旧藩への長年の忠義が新生国民国家に勝るものであったことを示している。したがって、より繊細で、より厳密な歴史叙述は暗黙のうちに、日本を悠久の日本民族国家とみなす歴史の真実性に疑問を投げかける。北海道神宮の島義勇像が古代を想起させるようであっても。
とはいえ、島から学べることはいろいろとあり、それらはほとんど考慮されていない。たとえば、北海道における島の植民地活動の経緯をたどれば、日本植民地帝国(最盛期は東アジアと東南アジアの沿岸部をほぼ併合)の根源を、今ではのどかな印象の強い佐賀という土地に見出すことができるかもしれない。1830年代には開始されていた帝国主義的拡大に向けた具体的な計画が、近代の北海道において実行された。だとすると、いわゆる鎖国法で支配されていた日本が、歴史的主体性・主観性を持たない内向き志向で国際的に孤立した封建社会であり、欧米列強から「開国」されるのをただ待っていた、という広く受け入れられてきた神話を見直すべきではないだろうか。この神話の論理に沿って考えると、日本は欧米列強の導きによって封建的停滞から抜け出し、幸いにも近代へと歩み出したという筋書きになる。こうした見方を前提に、何世代もの歴史研究者は、日本の帝国主義を欧米の植民地主義より劣り、真正でない、もしくは欧米の「ゆがんだ」模倣だと考えるのが一般的だったわけだが、古賀や鍋島、島は全く違う考えを持っていた。古賀らは、日本は欧米列強を模倣するのではなく、欧米列強の仲間入りをするのだと考えていた。これは筆者を含め、世界史の中で日本帝国を周辺的位置に押しやることなく研究している多くの批判的歴史家の見方でもある。
筆者が上述したような、緊張や多義性をはらんだ歴史が、公衆の目に触れる銅像や記念碑に刻まれることはまずない。理由は単純である。島の2つの銅像に見られるように、ほとんどの銅像はナショナル・ヒストリーの「偉人」の評価を高めるために建立するのであって、歴史を教えるためではない。銅像は仰ぎ見て称え、おそらくはその大きさに畏怖の念を感じてもらえばよいのであって、批判的な関与を求めてはいない。私たち見る側は、銅像を前に畏敬の念を抱けばよく、責任を感じる必要はない。一方、島のように政府に反抗した者であろうと、私たち自身がより大きな国民統一体の一部であることを自覚し、過去の英雄的行為の成果を感謝して受け入れるよう求められる。その英雄的行為が実際にはどういうものであったのか、しばしば明らかでないとしても、である。したがって、こうした銅像の多くは国の象徴として意味を補間されたものであり、歴史をわかりやすく説明するものではない。ただし、そうした銅像は全面的に否定すべきもの、あるいはまったく無価値なものだというわけではない。こうした歴史への筆者自身の関心は結局のところ、佐賀市神野公園で、佐賀の乱のもう1人の首謀者・江藤新平の銅像に出合ったことに始まる。むしろ、こうした象徴的な銅像を歴史の説明として受けとめようとするなら、理解しておかねばならないことがある。銅像は、人間がつくってその銅像の歴史を吹き込んだものであり、よく指摘されるように、明らかにされた「歴史」ではないということだ。
多くの人にとって、暴力の歴史と向き合うのは気分のいいものではない。郷土の偉人が関与している場合はなおさらそうだ。しかし、向き合えば見返りがある。過去に深く関われば多くの場合、イメージ志向の政治家が市民に提示しがちな歴史とは違った、もっと繊細かつ複雑で興味深い郷土史が浮かび上がる。さらに、現在の複雑な歴史的時点において自分たちはどこにいるのかを理解するには、歴史への批判的関与が不可欠である。とりわけ、自分(筆者を含む)の出身地が暴力の歴史と向き合っていないなら、補償と和解を進めるためにも重要である。「歴史論争」が世界中でなされているが、私たちすべてにとって、不本意であれ歴史を厳密に学ぶことは、人権と民主的シティズンシップの価値を高め、より平和的かつ包摂的な未来を確実に手にするために何よりも重要だと、筆者は考える。
※このブログ記事は2篇のブログシリーズの第二部です