対話を始めるまえにー「聞く」「話す」を考える
ある研究会で、非行少年の立ち直りに携わる実務家から少年少女たちの典型的な、そして誤解を受けやすい発言について実例を挙げた説明を聞く機会があった。彼らは他者から理解されにくい。それは、実際に発せられた言葉と、彼らが胸の内に描くものが一致していないからだ。このような不一致は少年非行だけでなく、DVや虐待など暴力に関わる分野で認知されていることだが、そのようなことも「分かる人が分かる」話で、多くの人には知られていない。
「なぜ人は、相手が発した言葉をそのまま信じてしまうのか」と疑問が思い浮かんでいた私は、その研究会の主催者から勧められた「言葉を失ったあとで」という本を早速読んでみた。この本は、長年臨床心理士として第一線で活躍し、数々の本を執筆した信田さよ子氏と、メディアでも話題になった「海をあげる」の著者であり、琉球大学教授の上間陽子氏の2人の対談集だ。対談というだけあって、少しカジュアルな会話で、本音がこぼれ落ちていて面白い。けれど、そのようなカジュアルさの中に、「インタビューをする際の相手への気遣い」「話を聞くときの心構えや距離感」など、フィールドワークを含む質的調査におけるポイントや葛藤、そして専門性についても示唆に富む内容がぎっしりと詰まっている。
私の抱いた疑問に関連する「言葉の限界と可能性」についても、本の中で実践例に基づいて語られていた。話を聞くということは、相手を理解することとは必ずしも一致しないときがある。相手の話していることが、彼・彼女が本当に表現したいこととは限らない。一方で、誰かの言葉を借りることなく、既にある概念に無理に当てはめることもなく、定型から解き放たれて自由に自らを表現することも簡単ではない。カウンセラーの信田氏は、それが独特の表現だったとしても、クライアントに自らの言葉を紡ぐことを真摯に求めていく。自らの言葉を紡ぐこと。そのように自らと向き合う機会はどれだけあるだろうか、そのようなことも考えさせられた本だった。
この対談では、國分功一朗氏と熊谷晋一郎氏の講義対談録「<責任>の生成-中動態と当事者研究」についても触れられている。この本も、自由であることの不自由さ、選択肢があるからこその限界、責任ある主体になるとはどういうことかなどについて考えを巡らせながら、「探していたものにようやく出会えた」と感銘を受けた作品だった。この二人の言葉や中動態の概念を借りて、これまで説明できなかった「個人の主体性」に対する違和感を語ることができると嬉しく思っていた。しかし、読み手によって感じ方や関心を持つポイントが違うと改めて気づかされたのは、上間氏がこの本に対して面白さを感じたと前置きしつつ、「<責任>の生成」の主体と責任の現れ方の順番に疑問を呈していたからだ。そう感じた上間氏の目に映る世界、上間氏が調査対象者を通して見る世界はどのようなものなのか、知りたいと思った。
同じ社会に住んでいるように思えても、見えている世界は異なる。だからこそ、限界があったとしても、そして意味が異なったとしても、言葉を介して、その違いを伝え合うことを私たちは試みるしかない。それは昔から行われていた試みなのだろう。大作「リヴァイアサン」の前に執筆した「法の原理」で、トマス・ホッブズは平和や主権者の重要性を説く前段として、人間にまつわるありとあらゆる言葉、「愛とは」「美しさとは」など、とても丁寧にこれでもかと定義していた。自らの言葉で一つ一つ説明していくため、この本を読んだ読書会では、「ホッブズはちょっとめんどくさい人だったのかな」というコメントが出たほどである。しかし、この「言葉を失ったあとで」を読んだ後に振り返ると、私たちもホッブズのように自らの言葉で一つ一つの概念を説明していくことが必要ではないかと思う。同じ言語で話していても、使う言葉、解釈する意味が違う。しかし、他者との対話を始めるときには、相手がどのような概念のもとに言葉を発しているのか、そして自分の見える世界で相手の言葉が何を意味するのか、考えることも大切だ。そのような営みを通して、「他者」と「自己」に気づくのだろう。その上で、「他者を理解するとは」「話を聞くとは」と問いかける。この問いへの答えを試みることは、対話の姿勢にもつながるはずだ。
【文献】
信田さよ子・上間陽子 (2021). 言葉を失ったあとで 筑摩書房
國分功一朗・熊谷晋一郎 (2020). <責任>の生成-中動態と当事者研究 新曜社
Thomas Hobbes. (1640). The Elements of Law, Natural and Politic. (トマス・ホッブズ. 高野清弘 (訳) (2019). 法の原理 筑摩書房)