ギフテッド教育から見る特別支援教育の問題点とその解決策
このブログ記事は、東京大学で行われた2022-2023年度全学セミナー『インクルーシブな社会に向けてー障害学への入門』の授業の一環で作られました。当授業では、異なる専門分野から集まった東京大学の学生一人一人が、誰もが暮らしやすいインクルーシブな社会を実現するとはどういうことか、そしてその実現に向けて私たちはどのような貢献ができるか、というテーマに関する課題を一つ選び、研究成果を発表しました。この記事はその中の一つの課題をブログにしたものです。
執筆者
大塚愛美
東京大学教養学部前期課程文科三類PEAK 学部生
クラスメートの絵と並んで、僕の絵が飾られている。
保護者達は様々な花びらの形、色の向日葵を眺める。
「彼は本当に絵の才能があるわ、「できる子」で羨ましい。すごいねえ、ー君。」
母はそういって、クラスで「一番」綺麗な向日葵を描いた生徒を褒める。
それは、僕のじゃない。
一番鮮やかで、大きな、向日葵。
「彼みたいに、オレンジと黄色を混ぜて、均等な花びらを描けば良いんだな」と学ぶ。
僕が描いた青い向日葵は、きっと、ダメだったんだな。と、学ぶ。
なぜ、私達は「他人」を通して「人」を評価するのだろう。
「天才」。天から授かった才能を持った子供はギフテッドと呼ばれ、その能力を褒め称えられる。しかし、「孤高の天才」とある様に、このカテゴリは、他者との比較を通し初めて成り立つ相対的なものだ。健常より「(はるかに)できる」を指すギフテッドという語は、同時に「(それより)できない」子供に対し、「劣等」を含意した「障がい児」というラベルを貼る。「障がい児」の特性は、天からの「ギフト」ではない、と断じる様な区別は、果たして必要なのだろうか。
今回は、「ギフテッド教育」の現状を通し浮き彫りとなる特別支援教育の理念上の問題とその弊害を取り上げ、それらの解決策の提案を試みる。
ギフテッド児と障がい児は両方共「ニーズを有した生徒」
通常学級の中で浮いてしまう「ギフテッド」と「障がい児」であるが、彼・彼女らの区別は本来なくても良い事を強調したい。
ここで、障がいの社会モデルを参照する。社会モデルは、障がいを「個人の機能と社会(物、環境、人等)」の間に生じる、と考える(Oliver, 2013)。すなわち、障がいは「本人の機能不全」ではなく、本人の特性が「社会の設計」によって負に働く事から生まれる概念だ。この定義から、教育における障がい児は、通常学級(現教育システム)で浮いてしまう子供を指していて、これは「ギフテッド」も「障がい児」も同じだ。従って、本来は両者共に紛れもない「障がい児」なのである。
二つの語が分けて用いられている現状は、図1のような優劣を浮き彫りにする。
不要な区別は、どの様な形で正当性を得て推進されているのだろうか。日本におけるギフテッド教育の現状を見ていこう。
ギフテッド教育を概観するーその定義、理念、現状についてー
「できる」子供はいつ「ギフテッド」と区別されるのか。ギフテッドという用語は、特定の領域(知的能力、学問、アーツなど)で「並外れた力量を見せる、あるいはその素質がある」さまざまな人々を捉えたカテゴリである(小林 2021)。これらの学生について、「能力を完全に開花させるため」通常学級にはないサービスや活動を提供するのがギフテッド教育だ。
通常学級において「特別なニーズ」を要する児童を対象としたギフテッド教育は「特別支援教育」の一環として推進されているが、上記の理念は「特別支援教育」の問題点を引き立たせる。
問題1:能力のある人のみが得る「伸長」の権利について
ーギフテッド教育が浮き彫りにする特別支援教育の問題点ー
ギフテッド児に推進されるのが「ギフテッド教育」である様に、障がい児には「インクルーシブ教育」が推進される。この、優劣を内包したそれぞれへの措置は、「特別支援教育」の理念上の矛盾に帰着する。
日本における特別支援教育の理念は、
障害の有無、その他の個々の違いを認識しつつ、「共生社会形成の基礎」となるものを構築すること。
生徒一人一人の教育的なニーズを把握し、その持てる力を高め、生活や学習上の困難を改善または克服するために、適切な指導及び必要な支援を行うもの」(和田 2010)
である。これは、OECDやUNESCO等が掲げる特別支援教育の定義に基づく。
この理念から抽出できるのは、特別支援教育に存在する二つの大きく異なった目的だ。
これは、
- 共生社会の縮図としての教育:「教室」という小社会を利用し、児童にとって障がいの有無をも超えた多様性を経験させる事。「環境等のバリアを取り除き、多様な能力や背景を持つ生徒が同じ教室で学ぶ」インクルーシブ教育と親和性が高い。
- 才能育成のための教育:障がいの有無に関わらず、個々のマックスのポテンシャルを引き出す事。「個人」の能力伸長を目的とするギフテッド教育と親和性が高い。
二つの大きく異なった理念が「同時並列的」に成し遂げられようとしている現状は、「ギフテッド教育」と「インクルーシブ教育」とそれに伴う生徒のカテゴライゼーションに必然性を与える。
しかし、その名の通り「インクルーシブ教育」は対象層が限定されていないのに、「ギフテッド教育」は「ギフテッド」のみに推進されている。なぜ、能力を見込まれた者でないと、「マックスのポテンシャル」を追求する事が許されないのか。この背景には、国策としてのギフテッド教育が考えられる。
近年、新自由主義的な教育改革が試みられていて、そこには優生思想の介入が見られている(桑原 2005)。実際、中国、韓国、シンガポールにおいて、ギフテッド教育は「国策」として導入されていて、国益をもたらす人材を育成するため、「才能伸長」を「特別支援」と謳って取り入れている。ギフテッド教育とインクルーシブ教育の区別は、伸び代の高くない子供の「社会参加」、そして高い子供の「能力伸長」という区別を施しているのだ。
問題2:「ギフト」がない障がい者の葛藤ー障がいを「相殺する」才能についてー
ここで、「ギフテッド児」の特性を取り上げる。
- 「気が向かない事はしない」
- 「感情の起伏が激しい」
- 「落ち着きがない」
これらは一見して、知的、及び発達障がいの特性と類似する。実際、ギフテッド児の多くは「発達障がいや精神障がいと誤診される事が多」く、「精神・社会面が弱い傾向にある」という(小林 2021)。
「ギフト」を持った発達障がい者は、「二重に特別な支援を要する子供」(2E)と呼ばれる。
ここで問題となるのが、「ギフテッドではない発達障がい者」に対する新たな抑圧だ。ギフテッドは「発達障がい」の特性を併せ持っている事が多いにも関わらず、そこに「才能」という要素が加わると、それらの特性は「天才たる所以」と、解釈が180度変化する。これが示すのは、「才能」が「障がいという負の特性を相殺する」作用を持っている事だ。
ギフテッド教育がもたらすギフテッド児の活躍は、「発達障がい=特別な才能」というステレオタイプをより強固なものとし、「ギフトを持たない」発達障がい者の生きづらさを増幅させてしまう恐れがある。例えば、側頭葉てんかん、自閉症スペクトラム障がい、注意欠陥多動性障がい等の当事者、そして自閉症スペクトラム障がいを持つ息子の母親である鈴木希望は自身のコラムにて、
息子に発達障害があると明かした時、「習い事をさせた方がいいんじゃない、そういう障がいがある人って常人ではない特別な才能があるというし」
という自身が直面したステレオタイプを基に、「発達障がい」があるのに、「才能を持っていない」葛藤を綴る(鈴木 2020)。
解決策ー個別教育とインクルーシブ教育の同時並列的な実践ー
特別支援教育の理念混合に関する問題を解決するには、異なった理念に対する異なったアプローチを、「生徒を区別せずに」行う必要がある。
ここで提案するのが、「個人教育」と「インクルーシブ教育」を同時並行する事だ。
「才能育成」のための教育:能力の有無に関わらず、児童のニーズに沿った教育目標やプログラムを作る。
- 利点:「個々の才能を育成」を果たし、一つの能力に関する「比較」を取り除き、「ギフテッド」や「障がい」という概念を軽減する。
- 人材不足などの問題がある。社会性などは身につかない。
「共生社会の基盤構築」のための教育:これを「教室」で行う必要はなく、たまたま「子供が集まる場所」が教室であっただけと言える。従って、より「社会の勉強」となるのは、勉強ではなく、「グループプロジェクト」などを1日1コマ、個別教育とは別途で導入することだ。例えば、「学校に必要だと思う設備の提案」に関するプレゼンテーションを障がいや能力の有無に関わらずランダムなグループで行う。
- 利点:ランダムなグループで行う事で、他者の異なった意見や視点を考慮する方法、特性に基づい役割分担など、コミュニケーション能力、協調性など、より「共生社会の基盤」となるスキルを育成する。
図2の様に、生徒の能力を直線上の軸にプロットするのではなく、その「軸」自体がたくさんある事を身を以て体験させ、その区別の不毛さを教育に取り入れる事ができる。
これは、「才能により障がいを相殺する」という一元的な価値観から生まれる「発達障がい=才能を持つ」というステレオタイプを軽減させる。
終わりにー共生社会と教育ー
能力が重んじられる社会の中で、一つの軸における相対的優秀児、「ギフテッド」は重宝され、崇められる。
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「この青の使い方がとても素敵だね。向日葵は黄色だけど、こういう見方も良いね。」
その子を見て、その子にあった「伸び代」を見つけられる社会こそが「共生」を成すのではないか。
参考文献
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