女性、命、自由について ―2022年イランを訪ねて―
「帰らないでほしい・・・」と悲しい表情を見せる友人に見送られ、スナップという配車アプリで車を呼び、後ろ髪を引かれる思いでエマームホメイニー国際空港に向かった。9月13日、3週間のイラン滞在を終えた私は、日本に帰国した。その同じ日、地方からテヘランに来ていたマフサ・アミニ(22歳・女性)は、イランにおいてイスラーム革命(1979年)以降女性に義務付けられている髪の毛を覆うヘジャーブの着用の仕方が不適切だとして道徳警察に逮捕・拘束された。
イランでは服装をめぐって道徳警察に逮捕されるということ自体は稀な話ではない。しかし、3日後に彼女が急死したニュースが報じられると、マフサ・アミニという名前はハッシュタグと共にSNSで拡散され、抗議運動がイラン全土に広がった。「女性、命、自由」というスローガンを叫ぶ人々、銃声の音、車のクラクションが鳴り響く動画の数々が日々SNSにアップされる。抗議運動の高まりとともに現地のネット接続も制限された。数日前まで一緒に過ごしていた友人達とも連絡が取りにくい状況になり、不安な日々が続いた。約1ヵ月が経過した今も抗議運動が収まる気配はない。治安部隊との衝突をうけ、国外に助けを求める声や、国外から連帯を表明する声も上がっている。
果たして、この一連の抗議運動を事前に予測することはできたのだろうか?振り返れば、色々な予兆は既に見え始めていた。同じ国を訪れても滞在する場所や出会う人々が違えば全く異なる印象を持つだろう。個人の主観に基づく観察の域は越えられないと断った上で、昨今のイラン社会の様子を記しておきたい。「欧米と対立し独自のルールを持つ宗教国イラン」という部分がクロースアップされる断片的な報道からは、「私たちとは違う人々の話」というイメージを抱きがちだが、内情はもっと多面性があり複雑だ。イランの事例から、ジェンダーや身体に関わる「自由」について、物価の高騰や社会インフラの老朽化についてなど、現代世界に生きる人々に共通する課題が浮き彫りになる。
ヘジャーブをめぐって
解決が望まれるジェンダーギャップは存在するにせよ、日本で暮らしている分には「今日も私は女性である」と意識することはあまり無い。ところがイランでの現地調査は、「私が女性であること」と切り離せない。国籍を問わず全ての女性に公共の場所でのヘジャーブの着用が義務付けられていること、男女別の入り口やスペースを設けた公共施設が多く存在することなどが主な理由だ。外出の際、玄関でヘジャーブを手に取る度に自分が女性であることを思い出す。10年以上前に初めてイランを訪れた際には、(もちろんレストランで外食する際にもヘジャーブを付けているため)ヘジャーブを被ったまま食事を摂るのは疲れると感じたが、頭から滑り落ちないようにする被り方の流儀を現地の女性達に教えてもらい、慣れてしまえばそれ程難しいことではない。一見「不自由」と思われる状況ではあるが、言い換えればヘジャーブさえ適切に身に着けていれば、市民に開かれている場所(市場、レストラン、カフェ、図書館、ミュージアムからアミューズメント施設まで)へはどこにでも「自由に」行けるのである。プールや美容室などはあらかじめ男性用と女性用の施設が別々に運営されている。そこでは髪の毛を見せても何の問題もない。ヘジャーブとはアラビア語でカーテンを意味する言葉でもある。家族以外の男女の間に仕切りが設けられていることが重要であり、仕切りの中には一定の「自由」が存在する。とはいえ、個人の行動範囲や従うべき規範は性別によって決定されると言っても過言ではない。
これまでも現地に赴く際は、せっかく女性研究者としてイランを訪れるのだから、女性にしか見ることのできない景色をしっかり見つめ、女性達が日々どのような生活を送っているのかについて出来るだけ見聞を広めるように意識してきた。イスラーム革命後に生まれ育った女性達と共に行動する中で、彼女達がどのような行動は安全で、何をすれば危険を伴うのかを熟知していること、そして危険と安全の境界線は常に揺れ動いていることを知った。また、ヘジャーブと総称されるものにも沢山のスタイルや流行があり、学校や職場の制服を除いて一人として同じ格好をしていないことがよく見えてくる。アートが好きな女性は、大量生産された商品(安い輸入品が多い)が並ぶ市場やお店で購入する代わりに、生地からこだわったオーダーメイドの服を身にまとっていることもある。一方で、女性達は街を巡回している道徳警察の存在を常に気にかけて行動している。カラフルな服装の若い男女が集うカフェや公園にも時折、見回りの警察車両がやって来る。車の助手席に座っている時に、友人から「車内でもヘジャーブを着けていないと罰金を取られるから気を付けて!」と注意された事もある。
先述した通り、女性専用の公共施設内では、髪の毛や服装に気を遣う必要はない。例えば、スポーツセンターには屋外プールもあり(携帯電話やカメラの持ち込みは禁止されているため、内部の様子が公開されることはない)、肌を焼きたい女性達はビキニ姿でプールサイドのリクライニングチェアに何時間でも横になっている。ハンバーガーやサンドイッチも販売されており、なぜか10年以上前に流行った洋楽のBGMが流れていることが多い。男性の姿がないというだけで、まるでリゾート地のような雰囲気である。
美容院も女性達がくつろげる代表的な場所の一つだ。大型の美容サロンでは、ヘアカットやカラーだけでなく、ネイル、フットバス、フェイシャルエステ、まつ毛パーマ、眉毛やアイラインのアートメイクなどあらゆるメニューが提供されている。美容サロンで施術をしてもらいながら会話や情報交換をすることも、女性達の重要なコミュニケーションの一部であるという事に気付き、私自身もあらゆるメニューを試してみることにした。どれも低価格なのにクオリティが高くとても満足する仕上がりだった。余談だが、ペルシャ料理によく使われる缶詰入りのザクロペーストを、フェイシャルエステに利用するために持参している女性がおり、イランならではの光景だと思った。ネイリストや美容師さん達と何気ない会話をするのも楽しい。女性専用の公共施設のスタッフはもちろん全員女性である。独身女性、既婚女性、離婚が成立したばかりだという女性、シングルマザーの女性、再婚した女性、状況は違っても皆それぞれに自立した考え方を持ち、働いている。
しかし、こういった話に「規制の中でもファッションを楽しむ女性達!」と、いかにもありきたりな見出しをつけて発信することだけは避けたい。イスラーム革命後のイラン・イラク戦争、そして戦後からの復興があり、段々と社会が明るくなってきた1990年代後半から2000年代初頭は、ヘジャーブをファッションの一部として楽しむ人々の話題は新鮮だったかもしれないが、革命から40年以上を経た今の状況はそう単純に一括りに出来るものではない。強いて言うならば、「あらゆる閉塞感、あらゆる困難、あらゆる問題を抱えながらも最後の希望を捨てず生き抜いている女性達」である。発色の良いネイルカラーで少しは気持ちを紛らわせることが出来るかもしれない。今回のイラン滞在で出会った人々からは、それぐらい何かぎりぎりのところで持ちこたえているという様子が伝わってきた。さらに、ヘジャーブの規則自体を疑問視する声も無視できなくなってきている。経済制裁の影響で思うように欧米との取引も出来ず、世界から自分達だけ取り残されていると感じている人は多い。SNSを通じて世界中から情報を得る世代の人々にとって、「なぜイランだけ?」と疑問が沸き上がるのも無理はない。
疲弊する社会の中で
現在の社会状況に閉塞感を感じているのは、男性も同じだ。一部の超富裕層を除いて、一般庶民はコロナ禍の爪痕、物価の高騰、社会インフラの老朽化などの問題に直面し、打撃を受けている。テヘラン市内には医療従事者を記念した壁画が描かれている程度で、新型コロナの話はほとんど話題にならない。街中でマスクをしている人は多いが、どこまでが排気ガス対策としてのマスクで、どこからが感染症対策かを見分けるのは難しい。マスク着用を求める張り紙が残っている店舗もまだあったが、実際にはマスク無しで出入りしている人が多かった。私が滞在中に訪れた場所の中で、マスクを着用しないと入場が認められなかったのは国立博物館だけであった。しかし、この数年間の間に本当に多くの方の訃報があり、新型コロナの爪痕は確実に残っているようだった。知人の家に行くと、数年前に元気な姿を見せていた家族や親戚がもうそこには居らず、「写真」になっていた。頼れる親族や働き手を失った人々の生活は、精神的にも経済的にも苦しくなる一方である。
スマートフォンを活用し現金をほとんど使わなくなったことも、コロナ禍以前からの大きな変化の一つである。最近オープンしたばかりのおしゃれなカフェでは、各自スマートフォンでQRコードを読み取ってメニューを表示させるのが主流だ。支払い時にはクレジットカードや電子マネーを使う。こういった“ハイテク”なサービスの普及が少しは人々の暮らしを便利にしているのかと思えば、賃金が上がらないのに物価が高騰しているためにとにかく暮らしにくくなったという声が本当に多く聞こえてきた。数年前と比べて生活が困窮し、お肉や果物を充分に買えなくなってしまった家庭もある。隣国イラクのバグダッドに出稼ぎに行きたいと言っているスナップの運転手もいた。その方がまだ稼ぎが良いという噂である。明日への希望が持てない中、鬱病を患い心療内科に通っている人も少なくない。
男性の友人、女性の友人と私の3人でレストランに行った際、会計をめぐって友人同士が揉めた挙句、男性の友人が車で先に帰ってしまったこともあった。結局、女性の友人と私は、市場で買い物をしてからスナップを呼ぶことにしたのだが、果物を大量に詰め込んだビニール袋(ナイロンと呼ばれる)は、車を待っている間に限界を迎えた。袋が破けて桃がいくつも斜面を転がり落ちていく。両手がふさがっているし、拾おうとしてかがむとヘジャーブも落ちそうになる。その場に居合わせた親切な人達が手伝ってくれ、ほとんど拾うことが出来たが、その時スピードを出して走ってきた車に1つ桃が轢かれ、ぐしゃっ!という音がした。会計時に揉めずに男性の友人の自家用車で移動できていれば、ビニール袋の強度がもっと強かったら、こんなにまとめ買いをしなければ・・・つまりもっと社会全体の経済状況がよければ!桃が車に轢かれることもなかったはずだ・・・潰れて無残な形になった桃の姿を見て、そう思わずにはいられなかった。
一度、歯車が狂い始めると、全てが上手くいかなくなる。たった3週間の滞在中にも、そう実感する出来事は沢山あった。滞在が終わりに近づいた頃、私自身も限界を感じてしまい、遂に体調を崩してしまった。帰国前日の夜、体調は万全ではなかったが、友人達と想い出深いレストランに向かった。イスラーム革命前から営業しているピザと洋食のお店で、テヘランに来ると必ず一回は訪れる場所である。「最後の晩餐だね」と滞在を振り返って談笑していたその時、ハプニングは起こった。隣の座席の天井の一部が落ちてきたのである。真下に座っていた若い男女のグループは、(驚いた様子ではあったが笑いながら)違う席に移動した。それから5分後、亀裂が入った天井の一部が更に追い打ちをかけるように落下し、再び店内がざわついた。一度目の落下の後、皆席を移動していたため、幸い怪我人は出なかったが、被害が大きければ本当に「最後の晩餐」になるところだった。店員はそこまで慌てた様子もなく「上の階の工事の影響だと思う。明日以降に修理する。」と話していたが、人々が危険と隣り合わせで生活していることが手に取るように分かった。イスラーム革命前、つまり60年代、70年代頃オイルマネーで潤う親米のパフラヴィー朝下で建設された公共施設や社会インフラは、当時の世界では最先端のものだったのだろう。天井が落ちてきたレストランも、テヘランで初めてピザを提供したお店としてその歴史が知られている。ヘジャーブの着用が義務化されていなかった王朝時代の記憶が街から完全に消えることはない。しかし今となっては老朽化が進み、壊れた場所から一つずつ修復し、根本的な問題は未解決のまま、なんとか持ちこたえているのだ。生活自体が苦しい庶民にとって建て替えや移転は簡単なことではない。時代は巻き戻すことも、早送りすることも出来ない。
日々の生活に限界を感じ、海外移住を切望する人も多い。しかし今の経済状況では、テヘランで庶民が数年間休まず働いても、せいぜい隣国トルコに行けるぐらいだと聞く。日本行きの航空券を買えるだけのお金を貯めるのも相当大変だ。「日本に遊びに来てね」と軽々しく言うこともはばかられる。ヘジャーブで仕切られているイラン社会。さらに、現代世界には国境という仕切りがある。国境のおかげで生活が守られる場合もあれば、国境によって「不自由に」なることもある。私を含む多くの女性客は、ドバイ行きの飛行機に搭乗すると同時にスカーフを外す。イランからの帰国便に乗りスカーフを外す瞬間は決まって身体が軽くなるように感じるのだが、今回はとても気が重かった。イラン社会で暮らす自分と同じ年代の女性達のことを知れば知るほど、彼女達を残して自分だけが去っていくことに辛さも感じる。ドバイ空港まで飛行機でたった2時間の距離だというのに、限られた人間しかその国境を「自由に」越えられない。
2009年にイランでは大統領選の結果をめぐって緑の運動と呼ばれる抗議運動があったが、政治体制を覆す革命には至らなかった。今回の抗議運動の行く末はまだ解らないが、人々は今、大きな変化の渦中に置かれている。社会が混乱に陥った時こそ、冷静な分析が必要だろう。それでもなお、車に轢かれて潰れた果実の光景は脳裏に焼き付いて離れない。時々思い出しては心臓がぎゅっと締め付けられたような感覚を覚える。人間の繊細な感情や身体、明日を生きるための小さな希望が暴力によって踏みにじられることがないよう願ってやまない。現代世界に生きる我々にとって「自由」とは何か、思考し続けていきたい。