中国残留孤児―植民地主義と自己アイデンティティをめぐる考察 - 東京カレッジ

中国残留孤児―植民地主義と自己アイデンティティをめぐる考察

2023.03.24
Tokyo College Blog

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このブログ記事は、東京大学で行われた2022-2023年度全学自由研究ゼミナール『私ってだれ?アイデンティティ研究入門』の授業の一環で作られました。

執筆者

中井博元 

東京大学教養学部 理科二類 学部生 

中国残留孤児は「外地」にいた日本人です。日本列島、つまり「内地」から「外地」にわたり、そして中国から日本に帰ってきました。親から二度引き離されました。一度目は戦争が終わった後、二度目は日本に帰る時に。

「この孤児は敵国の子だとわかっていたはずです。なぜ引き取ったのですか?」

「家の外で泣いていたんです。中国人でも日本人でも、泣くのは同じ。この子は中国語も日本語も朝鮮語も話せなかった。ただ泣いているだけ。泣いている子どもを外に放ってはおけません」

(報道記者と中国人養母との会話)1

「あなたはなぜ日本人といえるのですか?」「日本人であることをどうやって証明できますか?」 孤児はこういう質問に答えなければなりません。十分に確かな証拠を中国当局と日本政府に示さなければならないのです。孤児は何語で話をするのでしょう。中国語です。ただし標準中国語ではなく、中国北部の方言です。日本語を話せない日本人は、日本人に間違いないことをどうすれば証明できるのでしょうか。

戦争が1945年に終わり、中国と日本の外交関係は1972年に回復しました。国交が27年間途絶えていたのです。その間に、中国では国民党と共産党の内戦が起き、「大躍進」政策で数千万人が飢えと困窮に陥り、文化大革命は外国にルーツをもつ者に汚名を着せ、多数の残留孤児の素性を炙り出しました。

孤児たちは、自分が中国人家庭で育てられた日本人であることを知っています。でも、日本人の親は誰で、どこにいるのかは知りません。親は戦争で死んだかもしれません。あるいはずっと前に日本に帰ったのかもしれません。植民地開拓者の子どもである孤児は、汚名と不当な差別に耐えています。中国の人々は報復したい、抑圧者の子どもたちを罰したいと思っています。結局のところ、敗者の子孫はたいてい最も弱く、最も恨まれる存在です。

本稿は残留孤児に焦点を当てますが、「中国残留婦人」という用語にも触れ、「中国残留孤児」と区別しておきたいと思います。第2次世界大戦が終わった時、旧満州に残された13歳以上の日本人は「中国残留婦人等」と呼称され、13歳未満の者が「中国残留孤児」とされました2。「残留婦人等」の大半は女性で、13~19歳の少女たちは中国農村部で結婚相手として求められました。そのため、彼女たちは東北部の農家に嫁ぎましたが、13~19歳の少年たちは敗けた敵国の役立たずとみなされ、多くは殺されました。それでもどうにか生き残った少年たちも少数ながらいますので、実際には13~19歳の男女を含めて「残留婦人等」と呼んでいます。注目すべきことは、「残留婦人」は日本の初等学校を卒業し、母語が日本語であるため、一般に「残留孤児」より高い日本語能力をもっていました。

日中国交正常化後、「残留婦人」は「残留孤児」よりかなり早くに日本に帰国できました。「残留婦人」のほうが年長で、自分が誰であるかを示す確かな証拠を提示できる場合が多かったからです。

それに対し、自分の日本名や日本での居住地を覚えている孤児はごくわずかでした。そうした幸運な少数者を除けば、たいていの孤児は肉親を見つけられませんでしたし、家族はみな満州で死んだという可能性もありました。そのため、日本に帰国するには、ほとんどの孤児がNGOか身元引受人(国の制度として斡旋)の支援を得て肉親を探す必要がありました。

孤児が肉親を探すために公的な支援を申請するには、次の5つの要件をすべて満たさなければなりません3

  • 戸籍の有無にかかわらず、日本人を両親として出生した者であること。
  • 中国東北地区等において、昭和20年8月9日(ソ連参戦の日)以降の混乱により、保護者と生別又は死別した者であること。
  • 当時の年齢が概ね13歳未満であること。
  • 本人が自己の身元を知らない者であること。
  • 当時から引き続き中国に残留し、成長した者であること。
[令和4年度 中国残留邦人等支援に係る担当者資料 (説明資料)(厚生労働省社会・援護局 援護企画課 中国残留邦人等支援室)]

日本人家族を探すために、孤児は日本人を両親として生まれたことを証明しなければなりませんが、同時に自分の身元を知らない者である必要があります。自分の出生について詳しく知らないのに、自分が日本人として生まれたかどうか、どうしてはっきり知ることができるでしょうか。

さらに、孤児とされる人たちは終戦時に13歳未満であり、かなり幼い時に親と離れたことになります。つまり、おそらくは日本語を習得しないうちに中国人農家に引き取られ、育てられたということです。日本語を話せないのに、自分は日本人だとどうやって証明できるでしょうか。

日本に永住帰国した孤児2557人のうち、幸い身元が判明したのは1104人です4。残りの1453人は身元が判明しなかったのですが、日本政府は彼ら彼女らが日本人であると認めています4。日本語が話せなくとも、生みの親や他の親族がいれば身元を証明できます。それ以外に証明のしようがあるでしょうか。

孤児は日本人です。国策としての満州移住に応じた日本人植民者の従順で行儀のよい子どもたちです。すべての孤児が日本語を話せるとは限りませんが、多くの場合、言語によって自己アイデンティティが形成されます。すべての孤児が日本で肉親を見つけられるとは限りません。つまり、孤児のアイデンティティを形成するのは肉親の存在や日本語能力だけではありません。たとえば、日本人の両親のもとに生まれた子どもはワクチン接種を受けています。ワクチン接種の跡が皮膚に残っているかどうかで、生みの親が日本人であるか中国人であるかがわかり、そうした跡があれば日本人だと証明できるのです5。また、人身売買が中国の農村では珍しくなく、村民は「残留孤児」を労働力として、「残留婦人」を代理母として買っていました。記録が残っていて、こうした「残留孤児」や「残留婦人」が中国人でないことは村中が知っていました。日中国交正常化後、中国当局は人身売買の記録を、誰が日本人であるかを突き止める証拠としました。文化大革命期には「残留孤児」と「残留婦人」はののしられ、敵視されました。どんな家庭にも知られたくない秘密があるものですが、文化大革命のさなか、忌まわしい歴史を隠しておくことはできませんでした。一部の残留日本人と彼ら彼女らを受け入れた中国人家族は拘束され、体罰を受けました。理由は、残留日本人は外国人であり共産主義者でないから、中国人はそういう日本人を助けたからです。大和民族の子孫でないなら、確かな証拠(出生記録や戸口簿[中国の戸籍])を示して体罰を避けられるでしょうが、「残留孤児」には無理です。「残留孤児」には、中国人の両親のもとに生まれたことを示す出生記録はありません。「残留孤児」のなかには、日本人であるがために罰せられる者がいました。人民を教育し、共産主義を守るために、「罪人」は公然と非難されなければならないのです。誰がどんな理由で罰せられるのか、村中、近所中の人が知っていました。1972年以後、中国当局は「残留孤児」を刑罰歴や投獄歴で探し当てることができました。

「残留孤児」2818人のうち、2557人が日本に永住帰国しています4。幸い肉親が見つかり、親族に快く受け入れてもらえた孤児は、帰国後その親族と暮らし、主に親族の援助を受けています。日本に肉親がいないか見つからない場合、あるいは親族が受け入れを拒む場合、孤児は日本国内のNGOや身元引受人(国が都道府県に配置)を紹介され、日本国内でばらばらに暮らすことになります。東京、大阪、名古屋などの大都市や長野(大都市ではないが、長野県は旧満州に最も多くの開拓民を送り出したので「残留孤児」が多数居住)に居住する孤児はコミュニティを形成できましたが、地方に居住する孤児はそれができませんでした。つまり、コミュニティで共通のアイデンティティを形成することができなかったのです。それどころか、小さな町で日本人住民とつきあわねばなりません。しかし、孤児の日本語力では、集中日本語講座を6カ月間受けただけでは、地元の人と無理なく意思の疎通を図ることはできません。

「日本に帰った時はもう遅すぎた、自分の居場所はなかった、そう彼女は言った。せめて子どもたちには日本語を学んで、居場所を見つけてほしかった。(中略)中国からの帰国者はいちばん貧しくて、偏見にさらされた。(中略)同じ村に、中国から帰国したシロナミ村の男がいた。その子どもたちは学校で毎日殴られ、級友から『チャンコロ』と呼ばれていた。彼自身が幼いころ、中国人の級友から『日本鬼子』と呼ばれたように。」

(厳歌苓の小説『小姨多鶴』より)6

残留孤児は、中国では日本人であるがためにののしられ、拘束されることもありました。日本では偏見と差別にさらされています。残留孤児は日本でほとんど雇ってもらえません。高齢であり、経験不足であり、日本語が満足に話せないからです。国内でばらばらに暮らし、地域のなかで話をすることがままならないため、地域の住民はたいてい残留孤児の過去や苦労を知りません。結局、残留孤児は中国でも日本でも疎外されているのです。

関東の大学2年生91人を対象にしたアンケートによると、「残留孤児」や日本の満州占領について学校で学習した者は1割だけでした7。したがって、日本人全般における「中国残留孤児」という用語の認知度はかなり低いでしょう。残留孤児のアイデンティティは中国人からも日本人からも疑問視され、中国人は残留孤児を、日本人であるがゆえに非難し、日本人は残留孤児を、会話もままならない「中国人」だと馬鹿にします。残留孤児のアイデンティティは負のループに陥り、「出身はどこか?」という単純な質問にも答えられません。上記の調査結果からすると、「中国残留孤児」であることを本人が話しても、知っている日本人はほとんどいないでしょう。

それはいわば運命であり、「残留孤児」は不運な時代に不運な家庭に生まれたのだという人もいるでしょう。しかし、「残留孤児」は運命などとは思っていません。自分たちのアイデンティティ危機の責任は日本国にあると認識し、新しい法制度を求めています。残留孤児らは日本政府を相手に訴訟を起こしました。原告65人のうち61人が勝訴し、政府は61人に計4億6860万円を支払いました。残る4人の請求は、残念ながら20年の請求期限(除斥期間)が過ぎたとして棄却されました8

第2次世界大戦の終結から78年を経ましたが、戦争がもたらした問題の多くはまだ解決されていません。残留孤児が抱えるアイデンティティ危機は支援金や関連政策で多少軽減されるかもしれませんが、それで完全に解消されることはありません。彼ら彼女らの祖国には、残留孤児の体験に無理解な人たちがたくさんいます。「外地」に移住した日本人の物語を、なぜ広島や長崎の出来事と同様にすべての学校で教えないのでしょうか。残留孤児はすでに高齢です。この高齢者たちが存命のうちに、残留孤児の歴史を思い起こし、記録しなければなりません。残留孤児の法的請求が無効となっても、私たちは残留孤児の存在と歴史の教訓を決して忘れてはなりません。

 

Bibliography:

  1. Beijing Youth x Liangzi Talk. “ ‘Under the Sky, All Babies Cry the Same’Interview to Saikai No Nara’s Director Peng Fei.” Bilibili, 17 Mar. 2021, https://www.bilibili.com/video/BV1Pz4y1279D/?spm_id_from=333.337.search-card.all.click&vd_source=36db43b7903d4d0ef33386b1d2da02ea. Accessed Jan 20th, 2023
  2. NPO法人 中国帰国者の会 「『中国残留邦人問題』とは」 http://www.kikokusha.com/zanryu.html (2023年1月20日最終アクセス)
  3. 厚生労働省社会・援護局 援護企画課 中国残留邦人等支援室「令和4年度中国残留邦人等支援に係る担当者資料(説明資料)」pp.2 https://www.mhlw.go.jp/content/12100000/000637630.pdf (2023年1月20日最終アクセス)
  4. 厚生労働省社会・援護局 援護企画課 中国残留邦人等支援室「令和4年度中国残留邦人等支援に係る担当者資料(参考資料)」pp.96 https://www.mhlw.go.jp/content/12100000/000637631.pdf (2023年1月20日最終アクセス)
  5. TBS NEWS「両親の顔も知らない・・・中国残留孤児 言いたかった『ただいま』」https://www.youtube.com/watch?v=wfS1cch88DQ (2023年1月20日最終アクセス)
  6. Yan, Geling. Little Aunt Crane. Penguin Random House UK, 2015.
  7. 山崎哲 (2022)『中国帰国者の歴史をめぐる継承ーマスメディアと三世』 https://www.ritsumei.ac.jp/file.jsp?id=541014 (2023年1月20日最終アクセス)
  8. 日本共産党 「中国『残留孤児』 国に責任/神戸地裁 賠償命令 帰国や自立支援怠る」. 2006年12月2日 https://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2006-12-02/2006120201_03_0.html (2023年1月20日最終アクセス)

写真:2023年1月28日 第42回日中学生会議実行委員撮影 飯島春光 / 講演者(第42回日中学生会議日本側公式インスタグラム 「イベント開催報告」2ページ目 2023年2月1日 https://www.instagram.com/p/CoHQhaPMfIW/ 2023年3月14日最終アクセス)

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