日本とアメリカを行き来する人生—日本文学との出会いと現在
私と日本との、そして日本文学との関わりについてお話しします。この話は二部構成で、前半では、私の日本文学との出会いに関して鍵となった経験をいくつか紹介し、後半では、日本文学という領域の現在と未来についての、私の見解に焦点を当てます。
私は1951年に東京で生まれ、1歳でアメリカに渡り、東海岸にあるペンシルベニアとニューヨークで育ちました。日本語を学びはじめたのは、大学3年になってからです。
父が母と出会ったのは、父が東大生として駒場で下宿生活を送っていたときのことでした。終戦後の駒場は、東京大空襲のためほぼ焼け野原となっていましたが、かなり広かった母の家は焼け残り、GHQによる接収を避けるために、部屋を学生などの下宿人で埋め尽くしていました。父と、父の中学校時代からの親友で下宿も同じだったKさんは、どちらもその家の末娘だった母に恋心をいだいたのです。ある日のこと、父に見合い写真が送られてきたことで、母は意を決して父にプロポーズし、二人は結婚することになりました。父と母の結婚写真で母がとても悲しそうな顔をしているので、その理由を聞いたことがあります。父の親友Kさんに悲しい思いをさせてしまって、気の毒だったから、というのがその答えでした。この下宿で起きたことは漱石の『こころ』に似ていますが、結末はそれと違って悲惨なものではありませんでした。Kさんはその後、京大の生化学の教授になり、父とKさんは二人が亡くなるまで親友でした。
父の専門は、はじめは航空工学でしたが、第二次大戦後の日本では航空機の生産が禁じられたため、大学院では固体物理学・物性物理学に専門を変え、東京工業大学の講師になり、第一線の物理学者が研究をおこなっていたペンシルべニア州立大学に行くことを決めました。パナマ運河経由の船旅に3週間かけて、父はアメリカに到着しました。母と私は、あとから貨物船でサンフランシスコまで行き、そこからシカゴ行きの列車に乗ったのです。
私は現地で幼稚園に入りましたが、母は先生に、言語能力が十分ではないのだから家では英語を話すように指示されたということです。私が育ったのはペンシルべニアとニューヨークですが、周囲には日本人あるいはアジア人は、ほとんど全くいませんでした。小学生のときに一度だけ家族で日本に来たことがありますが(このときはプロペラ機でした)、弟に「皆からじろじろ見られるから英語は話すな」と言い聞かせたのを覚えています。私が中学生の時と高校生の時、父は東大に教授として戻るよう二回誘われましたが、アメリカに残ることにしました。その理由の一つは、私と弟がもうアメリカ人になっていて、日本語ができないと日本ではうまく暮らせないだろうということにありました。
ニューヨーク州のロングアイランドで育つなかで、私は幼い子供たちから、中国人の蔑称である「チンク」と呼ばれたこともありました。しかし、初めて深刻な意味で人種問題に直面させられたのは、高校の生徒会長選挙でした。(イタリア系アメリカ人の)対立候補が、私のことをホーチミン(1969年没)と呼んだのです。ベトナムの革命指導者ホーチミンは、ベトナム戦争の最盛期だった当時、アメリカ政府にとっての最大の敵でした。対立候補の支持者たちはマフィアのような手口を使い、私は地滑り的に負けました。ですが、それから数十年後、私は彼が経営するバーを訪ね、当時ヤンキースにいた松井秀喜について、とても愉快な会話を楽しむことができました。
1975年まで続いたベトナム戦争は、私の東アジア観に深い影響を与えました。私は、ベトナム戦争は人種差別主義的な戦争だと考え、大学1年生のときには真剣に反戦運動に取り組みました。反戦運動は、コミューンや自然回帰にオルタナティブな生き方を求める反体制運動であるヒッピー文化と交差するものでした。ヒッピー文化が(ウッドストック音楽祭で)その頂点に達した1969年に、私は高校を卒業したのです。ヒッピー文化のリーダーたちの多くは、精神面で、鈴木大拙らが紹介していた禅仏教に、非西洋的なオルタナティブを見出しました。大学時代の私が好きだった詩人の一人、ゲーリー・スナイダーは、多くの西洋人研究者とともに京都で禅を学んでいます。当時日本文化を学んでいたアメリカ人学生の多くが、日本の宗教、とりわけ禅仏教に関心をいだいていました。またこの頃、アメリカ文化、ヒッピー文化のなかで俳句への関心が高まっていましたが(ちなみにアメリカ俳句協会は1968年の創立です)、俳句は多くの場合、禅の観点からとらえられていたのです。それから何年もたって、私は芭蕉についての著書(『芭蕉の風景、文化の記憶』)のなかで、俳句と禅とのこの強い結びつけを解きほぐそうと試みました。
私が日本文学に本格的に興味をもつようになったのは、大学3年生だった1971年から72年にかけて、英文学を学ぶためにイギリス、ロンドンに留学したときのことです。当時ロンドンに日本人はほとんどいませんでしたが、学生や教授たちは日本の近現代文学に関心をもっていました。川端康成が1968年にノーベル文学賞を受賞し、その作品の多く、さらに谷崎潤一郎や三島由紀夫の作品が、英語に翻訳されていました。三島由紀夫が1970年に自殺を遂げてから日も浅く、若者たちはそのことに興味津々でした。
恥ずかしいことに私は、こうした作家たちについて、そして日本について、ほとんど何も知らなかったのです。そこで私は、日本語を学び、自分が生まれた場所について知ろうと決心しました。私が関心をもち、インスピレーションを受けた作家であるヴァージニア・ウルフの住んでいた家は、大学の近くのブルームズベリーにあり、彼女は1930年代に『源氏物語』を翻訳したアーサー・ウェイリーと親交がありました。その後、夏目漱石のロンドン滞在中の日記を読むと、ある店の前を通りかかったとき、鏡に猿が映っていると思ったら自分自身だった、と書いてありました。私は漱石ほどの疎外感は体験しなかったものの、日本人に見えるのに日本語を知らないということを強く意識するようになったのです。
1972年から74年にかけて、私はコロンビア大学で日本語の勉強にすっかり夢中になり、日本語の先生(メアリー・ヒュー先生、白戸一郎先生)が大好きになりました。3年生の日本語では、ハワード・ヒベット氏と板坂元氏が編纂したリーダー(Modern Japanese:A Basic reader, 『日本現代文読本』)を使いましたが、その中に谷崎潤一郎の『夢の浮橋』の冒頭の抜粋がありました。日本文学を原文で読んだのは初めてでしたが、今まで読んだ文章のなかでもっとも美しいものの一つだと思いました。語られていないことが、語られていることと同じくらい重要だったのです。また当時日本文学史を執筆中だったドナルド・キーン先生から、日本文学のエキサイティングな講義を受けたこともあります。彼はとても優秀な先生で、メモや草稿なしで授業をおこなっていました。
卒業論文は第二次世界大戦中のアメリカの日系人収容所について書きました。卒業後すぐ来日し、東京にある日本語学校に一年間通いました。見た目も名前も日本人なのに、日本語がうまく出来ないため、辛い思いをしました。居酒屋などに行くとアメリカ人の友達はいつも日本語を褒められるのに、私は褒めてもらえませんでした。そんな時、カトリックの修道女で清泉女子大の学長をしていた伯母(母の一番上の姉)の紹介で、新大久保にあるキリスト教の学生寮に入りました。そこで初めて日本人学生と出会い、友達になったのです。翌年、私は国際交流基金でアルバイトをしながら、駒場の大学院の比較文学専攻の授業を聴講しました。妻の鈴木登美とは、佐伯彰一先生の文学批評の授業で知り合いました。当時、駒場の留学生は欧米からの学生が中心で、あとは韓国人が一人二人いるだけでした。その後、有島武郎とアメリカ文学について日本語で論文を発表する機会があったのですが、日本人と間違われるのは嫌だと思い、名前の表記を片仮名だけにしました。
私が最初に興味をもったのは近代文学、とくに小説で、夏目漱石を研究するつもりでした。大学院の願書を、漱石の専門家であるエドウィン・マクレランがいたイェール大学に出しましたが、土壇場で気が変わり、エドワード・サイデンステッカーが『源氏物語』を教えていたミシガン大学に行くことにしました。近代文学と古典文学の両方をやりたかったのですが、ふと古典文学を先に学んだほうがいいという気がしたのです。これは結果的に正しい判断でした。
私がミシガンに着いたのは1976年の9月で、その数週間後にエドワード・サイデンステッカーによる『源氏物語』の翻訳(ウェイリー以降初めての翻訳で、初めての完訳)が出ました。美しいラベンダー(紫)色の表紙の本を、箱から取り出したときのことをよく覚えています。サイデンステッカー訳の登場によって、西洋では源氏物語ブームが起こり、その後、博士論文に基づいた私の処女作(『夢の浮橋、源氏物語の詩学』)を含め、いくつかの研究書が出版されました。私はこの30年間、古代から近世まで、数多くの翻訳書や選書を編集してきましたが、その理由の一つは、そもそも翻訳がなければ、日本以外の国で日本文学に興味をもち、研究することはほとんど不可能だからです。
『源氏物語』は主語が明示されることが少なく、敬語が複雑で、接続助詞もあいまいで、非常に読みにくいテクストです。サイデンステッカー先生が授業で使ったのは旧版の『岩波古典文学大系』で、他の注釈書は用いなかったので、一文ごとにどう読み解くか、延々と議論が続きました。サイデンステッカーの関心は、紫式部が風景や和歌を通してどのように人物像や内面性を生み出したか、ということにありました。これが、私の源氏物語研究の出発点の一つとなったのです。
東大本郷キャンパスにやってきたのは1979年秋のことですが、幸いなことに博士課程の上級生だった長島弘明さんがチューターになってくださり、秋山虔先生の『源氏物語』の授業に出席しました。秋山先生は私のことを優秀な学生だとは思っていらっしゃらなかったと思います(多分私はあまりできない学生だと思われていました)が、私の本が日本語で出版されたときには、大変親切に喜んでくださいました。東大での経験で重要だったことは、生涯の友人や仕事仲間ができたことです。
私のキャリアの大きな転機となったのは、母校のコロンビア大学に招かれ、助教授になったことでした。それによって私は、文語を教え、日本古典文学の博士課程の学生を指導する機会を得ました。最初に取り組んだのは古典日本語の文法書で、のちにClassical Japanese, A Grammar(2005年)を出版しました。この本は私の著書のなかでおそらく一番売れていると思います。私は文語の授業の冒頭で学生に「この授業を受ければ、文語が身につくだけでなく、現代日本語の力が伸びますよ」と言っています。文語を学ぶことで、日本語がどのように構造的に働くのか、日本語が時代やジャンルによってどのように変化してきたかを初めて理解することができるのです。Classical Japanese, A Grammarが前提とするのは、最低限の現代日本語の知識です。学生は通常、古典日本語を学ぶ前に、4~5年かけて現代日本語を学びます。しかし、日本語を母語としない人間にとって、現代日本語を学ぶのと、古典日本語を学ぶのと、その「距離」は変わりません。英語圏で古典ギリシア語を学ぶ人は、現代語を経由せず直接古典ギリシア語に向かい、英語―古典ギリシア語辞典を使います。私はこの15年間、和英古語辞典の作成に取り組んできました。今回の滞在の間に4人の東大の大学院生を含む、長年多くの大学院生の協力を得て、目下1万2千語に達したところで、初のデジタル辞書の準備を進めつつあります。これが出来上がれば、非日本語話者の古語の学習スピードは、4倍ないし5倍になるでしょう。日本古典文学の専門家にとっても興味深い辞書です。これを見ればよりよく古語の複雑さと意味の幅がよく分かります。日本では英語の勉強になると思います。